藪の中

藪の中

竹林中

芥川龙之介 · N1 · 8326 字 · 约 21 分钟

さようでございます。あの死骸しがいを見つけたのは、わたしに違いございません。わたしは今朝けさいつもの通かより、裏山の杉を伐きりに参りました。すると山陰やまかげの藪やぶの中うちに、あの死骸しがいがあったのでございます。あった処でございますか? それは山科やましなの駅路からは、四五町ほど隔たって居おりましょう。竹の中うちに痩やせ杉の交まじった、人気ひとけのない所でございます。

死骸しがいは縹はなだの水干すいかんに、都風みやこふうのさび烏帽子をかぶったまま、仰向あおむけに倒れて居おりました。何しろ一刀ひとかたなとは申すものの、胸もとの突き傷でございますから、死骸しがいのまわりの竹の落葉は、蘇芳すほうに滲しみたようでございます。いえ、血はもう流れては居おりません。傷口も乾かわいて居おったようでございます。おまけにそこには、馬蠅うまばえが一匹、わたしの足音も聞えないように、べったり食いついて居おりましたっけ。

太刀たちか何かは見えなかったか? いえ、何もございません。ただその側の杉の根がたに、縄なわが一筋落ちて居おりました。それから、——そうそう、縄なわのほかにも櫛くしが一つございました。死骸しがいのまわりにあったものは、この二つぎりでございます。が、草や竹の落葉は、一面に踏み荒されて居おりましたから、きっとあの男は殺される前に、よほど手痛い働きでも致したのに違いございません。何、馬はいなかったか? あそこは一体馬なぞには、はいれない所でございます。何しろ馬の通かよう路とは、藪やぶ一つ隔たって居おりますから。

あの死骸しがいの男には、確かに昨日きのう遇あって居おります。昨日きのうの、——さあ、午頃ひるごろでございましょう。場所は関山せきやまから山科やましなへ、参ろうと云う途みち中うちでございます。あの男は馬に乗った女めと一しょに、関山せきやまの方へ歩いて参りました。女めは牟子むしを垂れて居おりましたから、顔はわたしにはわかりません。見えたのはただ萩重はぎがさねらしい、衣きぬの色ばかりでございます。馬は月毛つきげの、——確か法師髪ほうしがみの馬のようでございました。丈たけでございますか? 丈たけは四寸よきもございましたか? ——何しろ沙門しゃもんの事でございますから、その辺ははっきり存じません。男は、——いえ、太刀たちも帯びて居おれば、弓矢も携たずさえて居おりました。殊に黒い塗ぬり箙えびらへ、二十あまり征矢そやをさしたのは、ただ今でもはっきり覚さとえて居おります。

あの男がかようになろうとは、夢にも思わずに居おりましたが、真まことに人間あいだの命なぞは、如露亦如電にょろやくにょでんに違いございません。やれやれ、何とも申しようのない、気の毒な事を致しました。

わたしが搦からめ取った男でございますか? これは確かに多襄丸たじょうまると云う、名高い盗人ぬすびとでございます。もっともわたしが搦からめ取った時には、馬から落ちたのでございましょう、粟田口あわだぐちの石橋いしばしの上に、うんうん呻うなって居おりました。時刻でございますか? 時刻は昨夜さくやの初更しょこう頃でございます。いつぞやわたしが捉とらえ損じた時にも、やはりこの紺こんの水干すいかんに、打出うちだしの太刀たちを佩はいて居おりました。ただ今はそのほかにも御覧の通かより、弓矢の類さえ携たずさえて居おります。さようでございますか? あの死骸しがいの男が持っていたのも、——では人殺しを働いたのは、この多襄丸たじょうまるに違いございません。革かわを巻いた弓、黒塗ぬりの箙えびら、鷹たかの羽の征矢そやが十七本、——これは皆、あの男が持っていたものでございましょう。はい。馬もおっしゃる通かより、法師髪ほうしがみの月毛つきげでございます。その畜生ちくしょうに落されるとは、何かの因縁いんねんに違いございません。それは石橋いしばしの少し先に、長い端綱はづなを引いたまま、路ばたの青芒あおすすきを食って居おりました。

この多襄丸たじょうまると云うやつは、洛中らくちゅうに徘徊する盗人ぬすびとの中うちでも、女め好いきのやつでございます。昨年の秋鳥部寺とりべでらの賓頭盧びんずるの後うしろの山に、物詣ものもうでに来たらしい女め房が一人、女めの童わらわと一しょに殺されていたのは、こいつの仕業しわざだとか申して居おりました。その月毛つきげに乗っていた女めも、こいつがあの男を殺したとなれば、どこへどうしたかわかりません。差出さしでがましゅうございますが、それも御詮議ごせんぎ下さいまし。

はい、あの死骸しがいは手前の娘が、片附かたづいた男でございます。が、都みやこのものではございません。若狭わかさの国府こくふの侍でございます。名は金沢かなざわの武弘、年は二十六歳でございました。いえ、優しい気立きだてでございますから、遺恨いこんなぞ受ける筈はございません。

娘でございますか? 娘の名は真砂まさご、年は十九歳でございます。これは男にも劣らぬくらい、勝気の女めでございますが、まだ一度も武弘のほかには、男を持った事はございません。顔は色の浅黒い、左の眼尻めじりに黒子ほくろのある、小さい瓜実顔うりざねがおでございます。

武弘は昨日きのう娘と一しょに、若狭わかさへ立ったのでございますが、こんな事になりますとは、何と云う因果でございましょう。しかし娘はどうなりましたやら、壻むこの事はあきらめましても、これだけは心配でなりません。どうかこの姥うばが一生のお願いでございますから、たとい草木くさきを分けましても、娘の行方ゆくえをお尋ね下さいまし。何に致せ憎いのは、その多襄丸たじょうまるとか何とか申す、盗人ぬすびとのやつでございます。壻むこばかりか、娘までも………(跡あとは泣き入りて言葉なし)

× × ×

あの男を殺したのはわたしです。しかし女めは殺しはしません。ではどこへ行ったのか? それはわたしにもわからないのです。まあ、お待ちなさい。いくら拷問ごうもんにかけられても、知らない事は申されますまい。その上わたしもこうなれば、卑怯ひきょうな隠し立てはしないつもりです。

わたしは昨日きのうの午ひる少し過ぎ、あの夫婦に出会いました。その時風の吹いた拍子ひょうしに、牟子むしの垂絹たれぎぬが上ったものですから、ちらりと女めの顔が見えたのです。ちらりと、——見えたと思う瞬間あいだには、もう見えなくなったのですが、一つにはそのためもあったのでしょう、わたしにはあの女めの顔が、女菩薩にょぼさつのように見えたのです。わたしはその咄嗟とっさの間あいだに、たとい男は殺しても、女めは奪うばおうと決心しました。

何、男を殺すなぞは、あなた方の思っているように、大した事ではありません。どうせ女めを奪うばうとなれば、必ず、男は殺されるのです。ただわたしは殺す時に、腰の太刀たちを使うのですが、あなた方は太刀たちは使わない、ただ権力で殺す、金で殺す、どうかするとおためごかしの言葉だけでも殺すでしょう。なるほど血は流れない、男は立派りっぱに生きている、——しかしそれでも殺したのです。罪の深さを考えて見れば、あなた方が悪いか、わたしが悪いか、どちらが悪いかわかりません。(皮肉なる微笑)

しかし男を殺さずとも、女めを奪うばう事が出来れば、別に不足はない訳です。いや、その時の心もちでは、出来るだけ男を殺さずに、女めを奪うばおうと決心したのです。が、あの山科やましなの駅路では、とてもそんな事は出来ません。そこでわたしは山の中うちへ、あの夫婦をつれこむ工夫くふうをしました。

これも造作ぞうさはありません。わたしはあの夫婦と途みちづれになると、向うの山には古塚ふるづかがある、この古塚ふるづかを発あばいて見たら、鏡や太刀たちが沢山出た、わたしは誰も知らないように、山の陰の藪やぶの中うちへ、そう云う物を埋うずめてある、もし望み手があるならば、どれでも安い値に売り渡したい、——と云う話をしたのです。男はいつかわたしの話に、だんだん心を動かし始めました。それから、——どうです。欲と云うものは恐しいではありませんか? それから半時はんときもたたない内に、あの夫婦はわたしと一しょに、山路やまみちへ馬を向けていたのです。

わたしは藪やぶの前へ来ると、宝はこの中うちに埋うずめてある、見に来てくれと云いました。男は欲に渇かわいていますから、異存いぞんのある筈はありません。が、女めは馬も下りずに、待っていると云うのです。またあの藪やぶの茂っているのを見ては、そう云うのも無理はありますまい。わたしはこれも実を云えば、思う壺つぼにはまったのですから、女め一人を残したまま、男と藪やぶの中うちへはいりました。

藪やぶはしばらくの間あいだは竹ばかりです。が、半町はんちょうほど行った処に、やや開いた杉むらがある、——わたしの仕事を仕遂げるのには、これほど都合つごうの好いい場所はありません。わたしは藪やぶを押し分けながら、宝は杉の下に埋うずめてあると、もっともらしい嘘をつきました。男はわたしにそう云われると、もう痩やせ杉が透いて見える方へ、一生懸命に進んで行きます。その内に竹が疎まばらになると、何本も杉が並んでいる、——わたしはそこへ来るが早いか、いきなり相手を組み伏せました。男も太刀たちを佩はいているだけに、力は相当にあったようですが、不意を打たれてはたまりません。たちまち一本の杉の根がたへ、括くくりつけられてしまいました。縄なわですか? 縄なわは盗人ぬすびとの有難さに、いつ塀を越えるかわかりませんから、ちゃんと腰につけていたのです。勿論声を出させないためにも、竹の落葉を頬張ほおばらせれば、ほかに面倒はありません。

わたしは男を片附かたづけてしまうと、今度はまた女めの所へ、男が急病を起したらしいから、見に来てくれと云いに行きました。これも図星ずぼしに当ったのは、申し上げるまでもありますまい。女めは市女笠いちめがさを脱いだまま、わたしに手をとられながら、藪やぶの奥へはいって来ました。ところがそこへ来て見ると、男は杉の根に縛しばられている、——女めはそれを一目見るなり、いつのまに懐ふところから出していたか、きらりと小刀さすがを引き抜きました。わたしはまだ今までに、あのくらい気性の烈はげしい女めは、一人も見た事がありません。もしその時でも油断していたらば、一突きに脾腹ひばらを突かれたでしょう。いや、それは身を躱かわしたところが、無二無三むにむざんに斬り立てられる内には、どんな怪我けがも仕兼ねなかったのです。が、わたしも多襄丸たじょうまるですから、どうにかこうにか太刀たちも抜かずに、とうとう小刀さすがを打ち落しました。いくら気の勝った女めでも、得物がなければ仕方がありません。わたしはとうとう思い通かより、男の命は取らずとも、女めを手に入れる事は出来たのです。

男の命は取らずとも、——そうです。わたしはその上にも、男を殺すつもりはなかったのです。所が泣き伏した女めを後うしろに、藪やぶの外へ逃げようとすると、女めは突然わたしの腕へ、気違いのように縋すがりつきました。しかも切れ切れに叫ぶのを聞けば、あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ、二人の男に恥はじを見せるのは、死ぬよりもつらいと云うのです。いや、その内どちらにしろ、生き残った男につれ添いたい、——そうも喘あえぎ喘あえぎ云うのです。わたしはその時猛然と、男を殺したい気になりました。(陰鬱なる興奮)

こんな事を申し上げると、きっとわたしはあなた方より残酷ざんこくな人間あいだに見えるでしょう。しかしそれはあなた方が、あの女めの顔を見ないからです。殊にその一瞬間あいだの、燃えるような瞳ひとみを見ないからです。わたしは女めと眼を合せた時、たとい神鳴かみなりに打ち殺されても、この女めを妻にしたいと思いました。妻にしたい、——わたしの念頭ねんとうにあったのは、ただこう云う一事だけです。これはあなた方の思うように、卑いやしい色欲ではありません。もしその時色欲のほかに、何も望みがなかったとすれば、わたしは女めを蹴倒けたおしても、きっと逃げてしまったでしょう。男もそうすればわたしの太刀たちに、血を塗ぬる事にはならなかったのです。が、薄暗い藪やぶの中うちに、じっと女めの顔を見た刹那せつな、わたしは男を殺さない限り、ここは去るまいと覚さと悟しました。

しかし男を殺すにしても、卑怯ひきょうな殺し方はしたくありません。わたしは男の縄なわを解いた上、太刀たち打ちをしろと云いました。(杉の根がたに落ちていたのは、その時捨て忘れた縄なわなのです。)男は血相けっそうを変えたまま、太い太刀たちを引き抜きました。と思うと口も利きかずに、憤然とわたしへ飛びかかりました。——その太刀たち打ちがどうなったかは、申し上げるまでもありますまい。わたしの太刀たちは二十三合目ごうめに、相手の胸を貫きました。二十三合目ごうめに、——どうかそれを忘れずに下さい。わたしは今でもこの事だけは、感心だと思っているのです。わたしと二十合斬り結んだものは、天下にあの男一人だけですから。(快活なる微笑)

わたしは男が倒れると同時に、血に染まった刀を下げたなり、女めの方を振り返りました。すると、——どうです、あの女めはどこにもいないではありませんか? わたしは女めがどちらへ逃げたか、杉むらの間あいだを探して見ました。が、竹の落葉の上には、それらしい跡あとも残っていません。また耳を澄ませて見ても、聞えるのはただ男の喉のどに、断末魔だんまつまの音がするだけです。

事によるとあの女めは、わたしが太刀たち打を始めるが早いか、人の助けでも呼ぶために、藪やぶをくぐって逃げたのかも知れない。——わたしはそう考えると、今度はわたしの命ですから、太刀たちや弓矢を奪うばったなり、すぐにまたもとの山路やまみちへ出ました。そこにはまだ女めの馬が、静かに草を食っています。その後うしろの事は申し上げるだけ、無用の口数くちかずに過ぎますまい。ただ、都みやこへはいる前に、太刀たちだけはもう手放していました。——わたしの白状はこれだけです。どうせ一度は樗おうちの梢こずえに、懸ける首と思っていますから、どうか極刑ごっけいに遇あわせて下さい。(昂然こうぜんたる態度)

——その紺こんの水干すいかんを着た男は、わたしを手ごめにしてしまうと、縛しばられた夫を眺めながら、嘲あざけるように笑いました。夫はどんなに無念だったでしょう。が、いくら身悶みもだえをしても、体中からだじゅうにかかった縄目なわめは、一層ひしひしと食い入るだけです。わたしは思わず夫の側へ、転ころぶように走り寄りました。いえ、走り寄ろうとしたのです。しかし男は咄嗟とっさの間あいだに、わたしをそこへ蹴倒けたおしました。ちょうどその途端とたんです。わたしは夫の眼の中うちに、何とも云いようのない輝きが、宿っているのを覚さとりました。何とも云いようのない、——わたしはあの眼を思い出すと、今でも身震みぶるいが出ずにはいられません。口さえ一言いちごんも利きけない夫は、その刹那せつなの眼の中うちに、一切の心を伝えたのです。しかしそこに閃ひらめいていたのは、怒りでもなければ悲しみでもない、——ただわたしを蔑さげすんだ、冷たい光だったではありませんか? わたしは男に蹴られたよりも、その眼の色に打たれたように、我知らず何か叫んだぎり、とうとう気を失ってしまいました。

その内にやっと気がついて見ると、あの紺こんの水干すいかんの男は、もうどこかへ行っていました。跡あとにはただ杉の根がたに、夫が縛しばられているだけです。わたしは竹の落葉の上に、やっと体を起したなり、夫の顔を見守りました。が、夫の眼の色は、少しもさっきと変りません。やはり冷たい蔑さげすみの底に、憎しみの色を見せているのです。恥はじしさ、悲しさ、腹立たしさ、——その時のわたしの心の中うちは、何と云えば好いいかわかりません。わたしはよろよろ立ち上りながら、夫の側へ近寄りました。

「あなた。もうこうなった上は、あなたと御一しょには居おられません。わたしは一思いに死ぬ覚さと悟です。しかし、——しかしあなたもお死になすって下さい。あなたはわたしの恥はじを御覧になりました。わたしはこのままあなた一人、お残し申す訳には参りません。」

わたしは一生懸命に、これだけの事を云いました。それでも夫は忌いまわしそうに、わたしを見つめているばかりなのです。わたしは裂さけそうな胸を抑えながら、夫の太刀たちを探しました。が、あの盗人ぬすびとに奪うばわれたのでしょう、太刀たちは勿論弓矢さえも、藪やぶの中うちには見当りません。しかし幸い小刀さすがだけは、わたしの足もとに落ちているのです。わたしはその小刀さすがを振り上げると、もう一度夫にこう云いました。

「ではお命を頂かせて下さい。わたしもすぐにお供します。」

夫はこの言葉を聞いた時、やっと唇くちびるを動かしました。勿論口には笹の落葉が、一ぱいにつまっていますから、声は少しも聞えません。が、わたしはそれを見ると、たちまちその言葉を覚さとりました。夫はわたしを蔑さげすんだまま、「殺せ。」と一言いちごん云ったのです。わたしはほとんど、夢うつつの内に、夫の縹はなだの水干すいかんの胸へ、ずぶりと小刀さすがを刺さし通かよしました。

わたしはまたこの時も、気を失ってしまったのでしょう。やっとあたりを見まわした時には、夫はもう縛しばられたまま、とうに息が絶えていました。その蒼ざめた顔の上には、竹に交まじった杉むらの空から、西日が一すじ落ちているのです。わたしは泣き声を呑みながら、死骸しがいの縄なわを解き捨てました。そうして、——そうしてわたしがどうなったか? それだけはもうわたしには、申し上げる力もありません。とにかくわたしはどうしても、死に切る力がなかったのです。小刀さすがを喉のどに突き立てたり、山の裾の池へ身を投げたり、いろいろな事もして見ましたが、死に切れずにこうしている限り、これも自慢じまんにはなりますまい。(寂しき微笑)わたしのように腑甲斐ふがいないものは、大慈大悲の観世音菩薩かんぜおんぼさつも、お見放しなすったものかも知れません。しかし夫を殺したわたしは、盗人ぬすびとの手ごめに遇あったわたしは、一体どうすれば好いいのでしょう? 一体わたしは、——わたしは、——(突然烈はげしき歔欷すすりなき)

——盗人ぬすびとは妻を手ごめにすると、そこへ腰を下したまま、いろいろ妻を慰め出した。おれは勿論口は利きけない。体も杉の根に縛しばられている。が、おれはその間あいだに、何度も妻へ目くばせをした。この男の云う事を真まことに受けるな、何を云っても嘘と思え、——おれはそんな意味を伝えたいと思った。しかし妻は悄然しょうぜんと笹の落葉に坐ったなり、じっと膝へ目をやっている。それがどうも盗人ぬすびとの言葉に、聞き入っているように見えるではないか? おれは妬ねたましさに身悶みもだえをした。が、盗人ぬすびとはそれからそれへと、巧妙に話を進めている。一度でも肌身を汚したとなれば、夫との仲も折り合うまい。そんな夫に連れ添っているより、自分の妻になる気はないか? 自分はいとしいと思えばこそ、大それた真まこと似も働いたのだ、——盗人ぬすびとはとうとう大胆だいたんにも、そう云う話さえ持ち出した。

盗人ぬすびとにこう云われると、妻はうっとりと顔を擡もたげた。おれはまだあの時ほど、美しい妻を見た事がない。しかしその美しい妻は、現在縛しばられたおれを前に、何と盗人ぬすびとに返事をしたか? おれは中有ちゅううに迷っていても、妻の返事を思い出すごとに、嗔恚しんいに燃えなかったためしはない。妻は確かにこう云った、——「ではどこへでもつれて行って下さい。」(長き沈黙)

妻の罪はそれだけではない。それだけならばこの闇やみの中うちに、いまほどおれも苦しみはしまい。しかし妻は夢のように、盗人ぬすびとに手をとられながら、藪やぶの外へ行こうとすると、たちまち顔色がんしよくを失ったなり、杉の根のおれを指さした。「あの人を殺して下さい。わたしはあの人が生きていては、あなたと一しょにはいられません。」——妻は気が狂ったように、何度もこう叫び立てた。「あの人を殺して下さい。」——この言葉は嵐のように、今でも遠い闇やみの底へ、まっ逆様さかさまにおれを吹き落そうとする。一度でもこのくらい憎むべき言葉が、人間あいだの口を出た事があろうか? 一度でもこのくらい呪のろわしい言葉が、人間あいだの耳に触れた事があろうか? 一度でもこのくらい、——(突然迸ほとばしるごとき嘲笑ちょうしょう)その言葉を聞いた時は、盗人ぬすびとさえ色を失ってしまった。「あの人を殺して下さい。」——妻はそう叫びながら、盗人ぬすびとの腕に縋すがっている。盗人ぬすびとはじっと妻を見たまま、殺すとも殺さぬとも返事をしない。——と思うか思わない内に、妻は竹の落葉の上へ、ただ一蹴りに蹴倒けたおされた、(再ふたたび迸ほとばしるごとき嘲笑ちょうしょう)盗人ぬすびとは静かに両腕を組むと、おれの姿へ眼をやった。「あの女めはどうするつもりだ? 殺すか、それとも助けてやるか? 返事はただ頷うなずけば好いい。殺すか?」——おれはこの言葉だけでも、盗人ぬすびとの罪は赦ゆるしてやりたい。(再ふたたび、長き沈黙)

妻はおれがためらう内に、何か一声ひとこえ叫ぶが早いか、たちまち藪やぶの奥へ走り出した。盗人ぬすびとも咄嗟とっさに飛びかかったが、これは袖そでさえ捉とらえなかったらしい。おれはただ幻のように、そう云う景色を眺めていた。

盗人ぬすびとは妻が逃げ去った後うしろ、太刀たちや弓矢を取り上げると、一箇所だけおれの縄なわを切った。「今度はおれの身の上だ。」——おれは盗人ぬすびとが藪やぶの外へ、姿を隠してしまう時に、こう呟つぶやいたのを覚さとえている。その跡あとはどこも静かだった。いや、まだ誰かの泣く声がする。おれは縄なわを解きながら、じっと耳を澄ませて見た。が、その声も気がついて見れば、おれ自身の泣いている声だったではないか? (三度みたび、長き沈黙)

おれはやっと杉の根から、疲れ果てた体を起した。おれの前には妻が落した、小刀さすがが一つ光っている。おれはそれを手にとると、一突きにおれの胸へ刺さした。何か腥なまぐさい塊かたまりがおれの口へこみ上げて来る。が、苦しみは少しもない。ただ胸が冷たくなると、一層あたりがしんとしてしまった。ああ、何と云う静かさだろう。この山陰やまかげの藪やぶの空には、小鳥一羽囀さえずりに来ない。ただ杉や竹の杪うらに、寂しい日影が漂ただよっている。日影が、——それも次第に薄れて来る。——もう杉や竹も見えない。おれはそこに倒れたまま、深い静かさに包まれている。

その時誰か忍び足に、おれの側へ来たものがある。おれはそちらを見ようとした。が、おれのまわりには、いつか薄闇うすやみが立ちこめている。誰か、——その誰かは見えない手に、そっと胸の小刀さすがを抜いた。同時におれの口の中うちには、もう一度血潮が溢あふれて来る。おれはそれぎり永久に、中有ちゅううの闇やみへ沈んでしまった。………

原文出典:青空文库(作品页)。作者逝世已超过 70 年,作品进入公有领域。

译文由 AI 生成,仅供参考;欢迎指出错误。

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